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三国志・ディープな武将紹介【後漢・群雄編】①『公孫淵』

後漢・群雄編はとりあえず北の方からまったりやっていきたいと思います。

公孫淵です。しょーもない人物です。
遼東・公孫氏ですので、同じ姓ですが北平の白馬将軍とは関係はありません。
父に公孫康、祖父に公孫度がいます。

父・公孫康が死去したとき、公孫淵はまだ幼かったので、彼にとって叔父の公孫恭が跡を継ぎました。
228年、公孫淵は叔父・公孫恭は国を治める能力が乏しいとして、脅迫し位を奪い追放してしまいます。
晴れて公孫淵は遼東太守の座に就くことが出来ました。

その後、公孫淵は不穏な空気を見せます。
呉に歩み寄ってみたり、再び魏に帰順の意を見せたり…。
そうこうするうちに、公孫淵はついに独立する姿勢を見せました。
237年、魏はあまりに粗相が目立つ公孫淵を都に召し出そうとしたわけですが、公孫淵は反抗し武力行使に出ます。
魏の軍勢を追い払った後、公孫淵は自立し燕王を名乗りました。

これには魏側も黙っていません。さっそく司馬懿を討伐に向かわせます。
相手があの司馬懿では公孫淵も為す術ありません。
公孫淵は司馬懿に捕らえられ殺されてしまいましたとさ。

ところでこの公孫淵、字は「文懿」というのですが、三国志にはその名を見ることはできません。
司馬懿〔司馬宣王〕の諱を避けてあえて記されなかったのでしょう。
唐の時代に編纂された晋書には公孫淵は「公孫文懿」の名で登場します。
唐の高祖・李淵の諱を避けるため、こちらでは字の方が採用されたのです。
まあ、公孫淵の字なんて、わかってもわからなくても非常にどうでもいい事なんですがね。
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三国志・ディープな武将紹介【蜀編】①『諸葛瞻』

あの諸葛亮の子である諸葛瞻を取り上げたいと思います。

234年、諸葛亮最後の出陣となる年ですが、兄・諸葛瑾に送った手紙にこのような内容がありました。
「息子の瞻は優秀でかわいい子なのですが、早成して将来大物にならないのではないかと不安なのです。」
この後、諸葛亮は帰らぬ人となりました。諸葛瞻8歳のときです。

17歳で内親王を娶り、その後はトントン拍子で出世していきました。諸葛瞻は書画に秀で、記憶力も良かったので、多くの人がその姿を亡き父・諸葛亮と掛け合わせ、彼の才を愛したといいます。
朝廷にちょいとめでたいことがあれば、それが諸葛瞻に関係がない事でも
「諸葛瞻さまがなさったことだ!」
と皆が伝え合い、彼の評判はみるみる高まっていきました。彼の実質以上にです。

諸葛瞻は利口ではありましたが、国難を救えるだけの知勇は持ち合わせていませんでした。
263年、魏の艾が軍を率い成都の目前まで迫ってきました。諸葛瞻は緜竹に陣取り、艾と相対します。
艾は帰順を勧める手紙を送りましたが、諸葛瞻はこれを受け入れず戦う覚悟を決めます。

結果は蜀軍の大敗でした。諸葛瞻も乱戦の中で命を落としました。時に37歳でした。
艾はそのまま成都まで軍を進め、蜀を降伏させるに至ったのです。

偉大な父を持ったために多くの人から才能以上の期待と評価を受けた彼の心中には、かなり複雑な思いがあったことでしょう。
しかし、彼は父と同じく最後まで国に対する忠孝を貫きました。諸葛亮もきっと草葉の陰で満足していたと思います。

三国志・ディープな武将紹介【呉編】①『朱桓』

呉編まずはこのひと朱桓からです。

古くから孫権に使えていた彼ですが、222年に攻めてきた曹仁を巧みな戦術で打ち破ってからその軍才を遺憾なく発揮し始めました。その後も数々の戦で功を立て、敵からも一目おかれる存在となりました。

一方で彼は激情家でもありました。敵と対陣中に自分の軍を思い通りに動かせない時などいつも腹を立ててたそうです。
また、彼は自分の過ちを認めず人の下につくことも嫌いました。
上司の全と揉め事を起こし側近を斬り殺す事態に発展したこともありました。しかし、孫権は彼の功績と能力を惜しみ、特別に罪を問うことをしなかったそうです。

加えて朱桓は記憶力が抜群に良く、一度会った人の顔は決して忘れることはなかったそうです。彼の部下である1万人の私兵全員の妻と子の顔さえも覚えてたそうです。
その上、非常に面倒見が良かった彼は財産の殆どを部下や親族たちと分かち合ったといいます。

239年、朱桓は62歳でこの世を去ります。当時の平均寿命からしたら、そこそこ長寿な方ですね。彼を慕った多くの人が憂いに沈んだそうです。

偏狭で性格に難があった朱桓ですが、その終りは全うすることができました。
能力はあっても性格に問題があったために横死してしまう人は数えきれない程いますが、彼がその仲間に入らなくて済んだのは当時の呉の情勢というものが大きく絡んでるのかもしれません。
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