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三国志・ディープな武将紹介【蜀編】②『楊顒』

久々にどーでもいい更新。
楊顒はあの悪名高き楊儀の一族にして、諸葛亮に才を認められるほどの賢人でした。

具体的に何をしたのかというと、丞相・諸葛亮が細かい金銭の出納まで自分でいちいち計算してるのを見て「組織には役割ってものがあるでしょ。そんなことは下役人に任せてればいいの。丞相は早く休みなさい」って諫言したら、えらく喜ばれたって話。

若死したのかは知らないけど、楊顒が死んだとき諸葛亮はその死をたいへん惜しんだという。まあ、これしか記述がないんだけど、諸葛亮が認めるほどだからきっと優秀だったんでしょう。
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三国志・ディープな武将紹介【蜀編】①『諸葛瞻』

あの諸葛亮の子である諸葛瞻を取り上げたいと思います。

234年、諸葛亮最後の出陣となる年ですが、兄・諸葛瑾に送った手紙にこのような内容がありました。
「息子の瞻は優秀でかわいい子なのですが、早成して将来大物にならないのではないかと不安なのです。」
この後、諸葛亮は帰らぬ人となりました。諸葛瞻8歳のときです。

17歳で内親王を娶り、その後はトントン拍子で出世していきました。諸葛瞻は書画に秀で、記憶力も良かったので、多くの人がその姿を亡き父・諸葛亮と掛け合わせ、彼の才を愛したといいます。
朝廷にちょいとめでたいことがあれば、それが諸葛瞻に関係がない事でも
「諸葛瞻さまがなさったことだ!」
と皆が伝え合い、彼の評判はみるみる高まっていきました。彼の実質以上にです。

諸葛瞻は利口ではありましたが、国難を救えるだけの知勇は持ち合わせていませんでした。
263年、魏の艾が軍を率い成都の目前まで迫ってきました。諸葛瞻は緜竹に陣取り、艾と相対します。
艾は帰順を勧める手紙を送りましたが、諸葛瞻はこれを受け入れず戦う覚悟を決めます。

結果は蜀軍の大敗でした。諸葛瞻も乱戦の中で命を落としました。時に37歳でした。
艾はそのまま成都まで軍を進め、蜀を降伏させるに至ったのです。

偉大な父を持ったために多くの人から才能以上の期待と評価を受けた彼の心中には、かなり複雑な思いがあったことでしょう。
しかし、彼は父と同じく最後まで国に対する忠孝を貫きました。諸葛亮もきっと草葉の陰で満足していたと思います。
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